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STATEMENT

 私は拾い集めたものを素材としてドローイングと彫刻、そしてインスタレーションを制作している。それらの拾い集めた素材は、私には関与することが出来ない無窮の過去と未来を背負っている。その過去と未来をつなぎ合わせる場所に私の手はある。私の肉体もまた無限の過去と未来を背負った存在である。この世界にあるものが人間に所有されるのはほんのひとときに過ぎず、土地や物や自分自身の肉体でさえも、永遠に所有できるものなど何ひとつとして存在しない。その表しがたい事実を拾い集めた素材は示している。私はその素材に関わるその瞬間において、永遠の現在を生きるのである。

 私の作品のなかに描き出されたりつくり出されたりするのは誰のものでもない場所や物である。作品のなかに現れてくる誰のものでもない場所や物を私に描かせるのは、拾い集めた流木や小枝、石や紙屑たちが発する声なき声である。その声が描かせる誰のものでもない世界は、実は誰もが持っている世界である。何故ならこの世界に存在するすべてのものはやがて姿を変え、流転する運命にあって、何ひとつとしてこの世界とつながりあっていないものなど存在しないからである。そして私がつくり出した作品もまた、私の手を離れ、人々の手に渡り、やがて長い時間をかけて塵や埃となり果てていくことであろう。

 それらの考えの底流には僧侶である父や祖父等から語り継がれてきた仏陀の説話や、経典に語られる仏陀の教えが流れているように感じている。何かを所有しようとしたり、奪いあったりしなくては生きていくことができない現代の社会を生きる私とは遠く隔たったところにあるような仏陀の教えに、私は自らの作品を通して触れたいと願っている。仏陀が弟子たちに向かって、自己を問い正すことを繰り返し説くように。私にとって現代社会のなかで振り回されて生きる自己を見つめ直すことこそが、作品をつくるという行為そのものであるように感じている。そうして生みだされた作品は、しばしば仏典において自己を鏡に喩えるように、私という鏡に映しだされた今の社会を生きる私自身の肖像なのかもしれない。

 

 

 

       

                                           

                          2018年1月2日    占部史人

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